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「大いなる火葬場」で見付けた人生の真理。

インド・バラナシ 火葬場にて。

ガンジス河は、全ヒンドゥー教徒の罪を洗い流し今日も堂々と流れ続ける。
その全長は2525km。ヒマラヤ山脈の氷が溶け、流れているものだ。

その”聖なる河”の沐浴場、通称ガートと呼ばれる場所からそう離れていない場所に、「大いなる火葬場」と呼ばれるものがある。


周囲は大きな薪で覆われ、24時間火葬の煙が途絶えることはない。

強い香辛料の香りと、牛の糞のニオイが混ざった一本道。

ヒンドゥー教徒の神”シヴァ”や、ゾウの顔を持つ商売繁盛の神”ガネーシャ”といった偶像を横目に、僕らは火葬場に向かう。

火葬場に来る途中、多くの裸足のインド人とすれ違った。

ガンジス河が流れる”バラナシ”はヒンドゥー教徒にとって”聖地”。

誰もがガンジス河で沐浴することを夢見ている。この聖地自体を裸足で歩く厳格な人々も少なくはない。


もくもくと灰色の煙を上げる建物が見えてきた。火葬場だ。その一帯はひどく暑く、汗が額から垂れ落ちる。


「火葬場」...人が”死”に燃やされるこの場所。


インドの火葬場は、日本での、火葬場のイメージとは大違いだ。


棺桶や火葬部屋など存在しない。そもそも、その火葬自体 学校の屋上のような場所で行われ、誰でも見ることが出来る。

大胆にも、1枚の布切れで包まった死体が、400km〜700kmの重さの薪木に覆われて焼却される。話を聞くと、薪の多さと火葬される場所の高さでその人が裕福だったのか、そうでなかったのかが分かるそうだ。


確かに、その火葬場の一段下(ひとつ下の)階では、数本の薪で誰にも見送られず焼却される人の姿が。

ほんの数十年前まで、インドには”カースト制度”という目に見える貧富の差が存在した。

”貧”と”富”の完全なる境界線だ。

規則上では、なくなったはずの”カースト制度”。

しかし、親の仕事は子に、孫にと、ほとんどの仕事が代々受け継がれるインドでは、”床を履く仕事”の者の息子は、同じ仕事をしている。

”身分”がハッキリと残っているのだ。

カースト制度が存在していた頃では、机の上を掃除する者と、床を磨く者との間にも差があったそうだ。


いま目の前で火葬を行っている人も、そのカーストに属し、受け継がれたもの。


「天は人の上に人を造らず」という言葉はインドには存在しない。生まれ持っての位がハッキリと存在する。



”人の価値”とは一体なんなのだろう?



インドを旅して、考えさせられることは多々ある。それはあまりにも日本と違いすぎるからだ。

今までどれだけの刺激を僕の人生に刻み込んだのであろう。

そんな物思いにふけっていると、”異臭”によって、現実に戻される。


これは嗅いだことのない臭いだ。


牛の糞の臭いでもなく、ゴミの臭いでもない。


「人が焼かれる臭い」

その臭いは例えようがなく、鼻に付くとなかなか取れない。

目の前で、人がパチパチと音を立てて燃えている。もちろん、薄い布は先に燃え尽き、死体が露わになる。


最終的には 薪も灰に変わり、

なかなか燃え尽きない人の体は、薪に収まりきらない足首がポロリとはぎ落ち、頭蓋骨が燃え、ものすごい異臭を放つ。


髪を燃やしたことがあるだろうか?


その強烈な臭いの数倍、頭蓋骨や脳が燃える臭いは強烈だ。



しかし、それを見守る遺族たちは悲しみの顔色ひとつない。

ヒンドゥー教徒にとって、
「死して、灰が聖なる河ガンガー(ガンジス河)に流れること」が人生で1番の幸せなのである。


なので、微笑ましく友人の旅たちを見守るような表情をしている人たちばかりだ。

”友の幸せ”を分かち合っているのだろう。

しかし、ひとつ重要なことは、この場所には男性しかいない。


話を聞くと、女性たちには”価値観/宗教”よりも、”別れの辛さ”が勝ってしまうそうで、火葬場で涙を流すことは縁起が悪いとされている。


”幸せ”なのは分かっているけど、
”感情”には敵わないわけだ。


なんとも、切ない感情なのだろう。


灰になった死体は、ガンジス河に流される。

しかし そのすぐそばの下流では、子供達が無邪気に水遊びをしている。

上流の方を見ると、服を洗う者、体を洗う者、用をたす者...このガンジス河は”生活の中心”だ。


その河に、今まさに灰が流れた。


子供達は何の気なしに遊び続ける。


「生」と「死」が混ざり合った世界なのだ。
人間は当たり前のように生まれ、そして死ぬ。


その事を、多くの日本人はなかなか理解していないと私は感じる。


私自身、「命の大切さ/尊さ」を自分の人生を通して学ぶまで、理解しえなかった。


「死ぬ直前」までを”人生”とし、”現実”としてしまっていた。


「死」という者が、非現実すぎる内容だと思っていた。


我々は「死」ぬ。それは、まるで夏から秋になるように。ごく自然なこと。


「生」と「死」は正反対のように見えて、
実は隣り合わせのものなのだ。


インド人はそれを知っている。


”一生”というものが何か。

”生きる”ということが何か。

その先にある当たり前の”死”を。


...物は当たり前のように壊れるし、なくなる。

命ある者は、朽ち果て、老い、死ぬ。

”必ず終わりが来る”のであれば、
何がこの世の”真理”で、かけがえのない物、永久な物なのだろう。

...
僕は、”行動/経験”と、”受け継がれる意思”なのだと思う。

まず、”行動/経験”に関して。
これは永遠に消えることのない、かけがえのない物だ。人は後にそれを”歴史”という呼び方をするが、

今我々がしている”行動”に偽りはないし、人類の歴史として間違いなく刻まれている。

つまり、僕がしている”世界一周”の旅も紛れもなく朽ち果てぬ物だ。

そして、第2に”受け継がれる意思”
人の肉体には時間制限がある。
受け継ぐことは出来ない。

しかし、”魂”と呼ばれる”意思”は他の者に受け継ぐことが出来、その人間の中でいつまでも生き続けることが出来る。

ある種、これが永久に生きる方法なのかもしれない。


...「経験」と「意思」
これが、人生の真理だとするならば、
僕は、”今の僕”を形として残しておきたい。

その方法が、文章にすることだと感じる。

文書以外でその2つを同時に残せないから。
僕の経験がこの場所に鮮明に残る。

そして今ある考え、つまり”意思”に共感してくれる人がいる。その人の中で、僕は生き続ける。

僕が見付けた「真理」とはこの2つで、
「書き続ける」ことによって、僕は真理に近づく方法を見付けた。

ホームを知ることで、アウェイを知る。
「死」を理解することで、「真理」を理解できた。


今日もガンガーは流れ続ける。
「生」と「死」をごちゃ混ぜにして。
※火葬場で写真を撮ることは「輪廻転生」から解脱できないと考えられており、禁じられております。火葬場の写真はすべて引用です。

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