マザーハウスでボランティア〜「死」を待つ人の家
コルカタに来た目的①
「マザーテレサのマザーハウスでボランティア」
この日僕は手を合わす側から、合わされる側へと変わった。
朝6:00 この日ばかりは、眠いとか言ってられない。なんせ、この旅はじめて”もらう側”ではないのだ。全てが”与える側”。
ボランティアに参加する際は、それなりの「覚悟」が必要だ。
この時ばかりは、シャキッとせねばならない。
そのボランティア施設を「マザーハウス」と呼ぶ。
マザーハウスのボランティア施設は、コルカタにいくつかあって、
日々多くのボランティアの方が足を運ぶ。
基本的に場所は、その日の朝に決められる。
男性は男性の施設へ、女性はその隣接した施設へと向かう。
今回、僕がボランティアを行ったのは”カーリーガート”と呼ばれる、死を待つ人の家、孤児の家、障害者の家のうちの、
「死を待つ人の家」
「死」を待つ。
ある種、「生」を持つ全ての物が「死」を待つ。しかし、僕らはその待ち時間を使って、この人生を謳歌する。
愛する者を持つ者もいれば、
世界中を放浪する者もいる。
誰も成し遂げたことのない偉業を達成する者もいれば、
自分自身を限界まで追い込み挑戦し続ける者もいる。
そこには、果てしない「自由」が存在し、
”人生”という白紙に、僕らは何でも描くことができる。それも自分らしく描くことができる。
全ての人間の向かう方向、ルートは違えど、
目的は「幸せ」になることだと私は考える。そこだけは、全ての人間に共通することではないだろうか。
しかし、このカーリーガートにいるお年寄り達に与えられた時間はそう長くはない。
まさしく「死」を待つために「生」きている。
”待ち時間”はまもなく終わる。いつか必ず、僕らもこの待ち時間切れが訪れるのだ。
その日は、7時過ぎにマザーハウスに集合し、
そこで配給されるパン・バナナ・チャイを頂く。施設内はもちろん、この活動を写真に収めることは禁じられているので、この写真が最後の写真。
それからカトリックのお祈りを行い、各施設へ向かう。
マザーハウスでの1日の流れは、
洗濯、洗濯物干し
↓
患者との交流、ケア
↓
昼食準備、食事手伝い、片付け
↓
解散
文書にしてしまうと、どうも簡単そうなボランティアだと感じるが、参加者にしか共感できない”重さ”がそこに存在する。
なぜなら、全てのお年寄りが”ただ”の患者ではない。
カリガートにいる患者は合計50名ぐらいで、ほとんどが高齢者でどの方も重い病気を患っている。
包帯だらけで目の見えないのおじいさん。
体全身が真っ白のおじいさん。
全身がボツボツとコブだらけのおじいさん。
片足、片腕がないおじいさん。。。
はぁ、なんだか胸が苦しくなる。
五体満足、そして若いということ。
これがどれだけ「幸せ」なことか。
カーリーガートの中に入っていくと、
多くの患者さんに手を合わせられた。
いつもは、僕が”心の支え”に、”希望”に、
手を合わす側だったのに、この場所で、初めて手を合わせられる側になった。
必要とされている。僕はそれだけで、心が清められたかのような気がし、身が引き締まった。
最初の僕の仕事は、とにかく患者さんのシーツや洗濯物を屋上に干していくこと。
この施設で働いているインド人の方と、一生懸命 何百という衣類を搾る、干していった。
その後、患者との交流、ケアや、
昼食準備、食事手伝い、片付けを行う。
基本的にボランティアは午前中で終了する。僕は1日しかボランティアが出来なかったが、中には3ヶ月、半年という方も多い。
ボランティアに参加するほとんどが、クリスチャンの方で、国籍も様々だ。
僕のチームには、イタリア、チリ、エジプト、スペインなど、もちろん日本人の方もいて、多くの外国人と仲良くなれた。
「同じ目的」を持った仲間。
ここでは、かなり早い段階でチームワークが行えると感じた。
...ボランティアをしている最中に1人、お年寄りに「お迎えの時間」がやってきた。
彼の「死」への待ち時間は、0となった。
僕は、その”人の死の瞬間”という瞬間に立ち会ったのは初めてのことで、感情が何も動かなかった。
実感がないのだ。
それはまるで、21歳から22歳になったときのように。言われて、生活してみるまで、最初は実感がないのと同じで、
”まだ実感がない”
なんと思っていいのかわからないが、目の前で、ほんと一瞬前まであった「生」が今はなくなり、からっぽの体だけがタンカーによって運ばれていく。
周囲のお年寄りや、マザー、長くいるボランティアの方は、その光景にどうってことない様子で、各自作業を進める。
立ちすくんでいたのは、僕だけ。
僕だけ、その光景はモノクロに見えていた。
この旅に出るまで、「生」と「死」に真剣に考えたことがなかった。
しかし、タイやカンボジアでの出来事。多くのキッカケによって、心で理解してきた。
特にインド。「世界はインドとインドではない国で出来ている」と言われるインド。
この言葉が存在する理由と、この国がいつまでも特別な理由は、こういったところにあるのではないだろうか。
ありきたりなテーマ「生きる」ということ。
この”ありきたり”さを理解するのが、どれだけ大変なことか。それをインドは知っていて、僕らアウェイから訪れた旅人に、”経験”を通じ教えてくれる。
はっきり言って、僕が行ったボランティアなんてちっぽけなものだし、1日なんかで分かることなんて、本当に本当に ”ごくわずか”だ。
このボランティアはとても大変だけど、ものすごく価値のあるものだった。そして、訪れた際は、ぜひ長期で行うことをオススメする。
マザーテレサは言った。「優しさの反対は無関心」だと。
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