読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

黒ヤギを”生贄”に〜カーリー寺院で感じたこと〜

濡れて、ドロドロの寺院の床に裸足で立っている僕。

その日生贄に捧げられるヤギが連れてこられた。

ドラムロールがその異様な雰囲気(僕らからすると)を更に活気立てる。

耳につくヤギの嫌がる鳴き声。


”ザンッ!”


一瞬だった。処刑人が黒ヤギの首をはねた。


首から下の胴体は、切られたことを理解していないかのように、まだバタバタと飛び跳ねている。


一瞬にして、

そう「あっ」と思った瞬間に、ヤギの首と体はバラバラになっていた。

...


「命」ってなんだろう。

「生」ってなんだろう。


インドの旅が、僕ら旅人にとって
”かけがえのない旅路”になる理由のひとつとして、「生きること」をよりリアルに感じることが出来るからではないだろうか。


ありふれたテーマ「生きる」ということ。

しかし、そのありふれたテーマを感じることは全ての”生”にとって、簡単なことではない。


生きるということは、「死」を理解するということだ。この裏のようで表、表のようで裏である表裏一体の心理に、日本人の僕はなかなか気付くことが出来なかった。


「ヤギの首をはねて、生贄を捧げる”カーリーテンプル”っていう、コルカタにある寺院は絶対行った方がいい。」


そうプリーで一輝くんに言われたので、
コルカタを去る日の朝、僕はその場所に行くことにした。


コルカタに来た目的その②
「カーリーテンプルへ生きヤギの生贄を見てくる」


インド最終日。
その日の夜に、僕は3週間旅したインドを抜ける。色んな思いを乗せながら吹く風の匂いは、今日も香辛料と動物の臭いが混ざっている。


僕は朝早くにカーリーガート寺院に向かった。


カーリー寺院とは、インドの神様の一人である「カーリー」を祀った寺院だ。
カーリーとは、血と殺戮を好む戦いの女神のこと。

インド、ヒンドゥー教徒には、それぞれの地域の神様が存在し、プリーではジャガンナード、コルカタではカーリーという感じだ。

生首のネックレスをし、腕を何本も腰に巻きつけているカーリー。

さらに、ヒンドゥー教の3最高神であるシヴァ(画像の踏まれている人)の奥さんだ。



このブログでもよく出てくる「インディージョーンズ 魔宮の伝説」

そのシーンの中でも、カーリーへ人の命を生贄を捧げるシーンが出てくる。


僕は、その神様に会いに来た。


カーリー寺院に入ると、すぐに 処刑され”解体されるヤギ”の姿があった。

首をはねられ、生贄にされた黒ヤギは解体されるのだ。

ヤギの足を縛って、吊るしてあったその死体は、皮をはがされ、

次々と切り分けてられていた。

まるで スーパーに並んでいる肉片のように、ピンク色で、それこそ今から食せそうな雰囲気だ。

その近くでは、その仲間の体がバラバラになる解体の様子を黒ヤギ達が見ている。



この光景は、なんとも切なく、ヤギはどんな気持ちなのだろうと感じる。



そして、その黒ヤギは次の生贄に選ばれた。


ヤギは理解している。”次は自分の番”だと。


処刑人から必死に逃げようとする黒ヤギ。



まるで人間のような声を出す。この声が今でも耳から離れない。「め”ぇー!め”ぇー!」と鳴く。

必死に暴れるが、逃げることはできず、処刑人に引きづられる。



ヤギを生贄として殺す儀式は、黒い石でできた小さな建物の中で行われる。

そこでは、裸足にならねばならい。

濡れて、ドロドロの寺院の床に裸足で立っている僕。


ヤギが花束をかけられて、聖水で清められ、生贄の儀式が行われる。


小学生ぐらいの子供が勢いドラムロールを鳴らす。


そのドラムロールの音がその異様な雰囲気を更に活気立てる。


”生贄の儀式”の始まる合図だ。


耳につくヤギの嫌がる鳴き声。


暴れるヤギを男が押さえて、足をのばし、処刑台に首を固定する。


一人の男が、大きな刀を持ってきて、一気に振り下ろした。



”ザンッ!”




一瞬だった。処刑人が黒ヤギの首をはねた。

首から下の胴体は、切られたことを理解していないかのように、まだバタバタと飛び跳ねている。


一方、頭の方は 首の中身が丸見えになり、

ヒクヒクとまだ呼吸をしている。



その光景を見ていたインド人は、ヤギの血で額にマークを描かれていた。



...吐き気がした。

一瞬にして”生”がこの世から消え去った。

僕には強すぎる刺激であった。人生で初めて見た光景だ。



しかし、この光景は僕が見ていないだけで、

毎日 毎日、どこかで行われている。

それも、「僕たち人間が生きるために」



日本のスーパーには綺麗に精肉された物しか並んでおらず、消費者(お肉を食べる人たち)は、こういった動物が肉になる光景を見ることも、考えることもしないだろう。



しかし、今回の儀式を見れたことによって、

”肉を食べるということ”=”ひとつの命をいただいているということ”を心で理解することが出来た。

「いただきます」という意味を再確認することが出来た。

毎日、大量の食べられる物を捨ててしまう国、日本。皆さんは「いただきます」を意味をよく考えたことがあるだろうか。



黒ヤギの生贄は、少々 刺激が強かったが、

非常に良い経験になった。

僕らが「生きる」ということは、つまり何かを犠牲にしているということでもあるのだ。

インドは知っている。今日も「生きる」ということを。