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「僕とスキーの関係性」 〜インスブルックのコインランドリーにて〜

物心が付くと、「スキー」をしていた。

趣味がこうじて、インストラクターになった両親。
その両親の間に生まれた”第一子”10歳離れた姉、恵美子。

そんな姉の背中を見ながら、

東京都出身ながらも、懸命に取り組んできたスポーツ「アルペンスキー」。

今の「世界を旅する」自分を振り返っても、姉の存在は非常に大きなものだと感じる。
アルペンスキー日本代表として、ワールドカップを転戦、日本女子7年ぶりのワールドカップ決勝進出。

常に、アルペンスキー日本女子の”最高峰”に君臨する姉。本人は「ずっと成績がなかった」といいつつも、アジア杯で金メダル、ユニバーシアードで銅メダルと、

スキー界では「清澤」という名字は非常に重たいものが当時の僕にはあった。
また世界を舞台に日の丸を背負って戦う姉の姿は、やはり「かっこいい」の一言では終われない”憧れ”というものがあった。

小学6年生の頃、イタリア・フランスで行われたチルドレンの世界選手権に出場。

その時のコメントでは、
「いつか世界を舞台に戦いたい」と発言し、再びヨーロッパのこの”スキーの聖地”に立ちたい。そんな漠然とした「夢」を描いていた。

それと同時に、この世界大会をキッカケに世界の広さを感じる。

「世界大会」といえど、スキー文化の強いヨーロピアンが主な選手であったが、それに対して東の国の「日本」という小さな島国から、自分たちのスポーツをやってる選手がいる。それだけで、他の国の選手に大きく歓迎されたものだ。

その時、子供ながらに
世界には、これだけの国、これだけの人々、これだけの文化がある。と強く感じ、「海外」というものに強い魅力を感じた。

中学生になり、東京都選手権優勝。
関東を中心に行われる大会では、それなりに表彰台を飾ってきた。

東京都で1番になり、出場した全国大会。
しかしそこでは全く結果が出なかった。
アルペンスキー」...やはり北海道や新潟、長野といった、いわゆる「雪国」の選手が非常に強かった。

常に「清澤の弟」と呼ばれ、比較され、
家での会話はほとんど姉を中心に展開され、
東京の実家には、数えんばかりの姉のトロフィー。はっきり言って、居心地のいい場所ではなかった。

それでも、自分の夢を叶えるため、
強くなるために、中高一貫校であった
成城学園”を飛び出し、北海道へスキー留学。

これがまた、姉が通った道を通ってしまったのだ。
僕の北海道での生活は、今まで東京で育った環境とは違い、「スキーを中心」に全てが回る。

スキーを知れば知るほど、その姉の大きな存在と、自分のチッポケな存在の差は広がる一方であった。


”スキー”を中心に物事を考えるので、
成績が出ない自分は「なんてダメな人間なんだ」と感じる日々が続いた。

スポーツに情熱を持って、取り組んできた高校時代。その淡い青春は輝かしいもので、成績がなかなか出ない中でも懸命に前を目指し続けた。

「いつか必ず、成果は出る。」
そう信じて止まなかった。

北海道では、北海道選手権8位や、全国高校選抜23位と、なんとか”スポーツ推薦”で大学に、ギリギリで入れる成果を出した。

どちらの大会も、姉は優勝している。という声が、自分の中で木霊した。
それでもどうにか”情熱”に火を消すことなく大学も体育会スキー部に入部。

それはもちろんのことで、スポーツ推薦で入ってきたわけだから、”スポーツで成績を出すことが仕事”と、ある種 洗脳を受けている状態での入学であった。


再び東京に戻り、「大学」という今までの自分のコミュニティの中では、1番 大人びた響きで、大きな組織に所属した。

大学1年目は本気でスポーツに取り組んだ。
ここで何とか、学生チャンピオンシップという大会で13位を獲得出来たが、誰もそんなことには気付くことはなかった。

おそらく、自分がスキーをし続けたのは、誰かに認められたかった。というか、物事をする上での最大のモチベーションが、「誰かに認められたい」という欲が強い。

特にスキーに関しては、これ以上の何物でもなかった気がする。以前 高校生の頃、この内容を”スキー部日誌”に書き、監督に提出すると大きく否定され理解されなかった。

これは普通、理解出来ないことだと思う。
自分くらい陽に当たらなかった人間でなければ。

大学1年目 スキーで結果を出したいがあまり、講義にほとんど出席せず、単位を10単位落とした僕は、2年目が始まる頃”ハッ”とした。

スキーの成績もない。
大学も4年間で卒業出来ない。

「これでは、ますます自分の居場所がなくなってしまう。」そう気付いた僕は、気持ちを入れ替え、つまりシフトチェンジし、積極的に授業に出席するようになった。

授業に出て、大学の”一般生”と呼ばれるクラスメイトの友達と話す機会が増えた。

「一般生」とは、いわゆる大学受験をして入学してきた一般の生徒。に対して、「体連生」...つまりスポーツ推薦で入学してきた僕。


そもそも「一般生」という言葉自体、「体連生」が作った言葉なのではないだろうか。「一般」が普通なのだから。

ひと学年の8割以上が、当たり前だが一般生である。

そんな一般生と、僕はまともに会話が出来なかった。というのは、”知識”が無さすぎたためだ。

今まで、身内で「スキー」の話ばかりしていたから、知識に偏りがあったのだ。特に高校生の頃からはだ。

これはきっと、僕の同期が今、社会に出て感じていることかもしれない。「スキー界」という小さな枠組みから外れると、ほとんどの知識で周囲の人間に敵わない。

この時、気付いたんだ。


「ひとつのことを”極める”っていうのは、
一歩隣に行くと”素人”ということ」に。


それに、僕の場合「極めた」内に全く入らないと自覚していた。ますます、このままじゃヤバイ。ということを理解した。

周りの先輩は、雪国からこの大学に入っており、当時 地元に帰る人がほとんどであった。彼らは、地元に帰っても「スキー」の話をする時間が長いかもしれないが、僕はこれからも東京という”雪のない場所”で生きて行く。


となると、スキーの話をするのはごくごくわずかな時間。
ということに気付き、自分に足りない「スキー以外の経験値」というものを磨く必要がある。なぜなら、これからもっともっと多くの人たちと話がしたいし、繋がりたいからだ。

それからだった。色んなことに、満遍なく手を出し始めたのは。

当時の僕を見ていた姉はこう語る。
「中途半端なことをしているように見えた」と。それはそうであった。能力がゼロの物を全部、アベレージに近い五角形ないし、六角形に伸ばしたい。

全てを満遍なく伸ばそうとすると、そのアベレージのチャートは”中途半端”に見えても仕方がない。色んなことに手を出した。


ボランティア、インターン、ゼミ、アルバイト、もちろん恋愛だって、友情だって、手が出せること全部やってきた。


平凡な連中は、「人はひとつのことしかできない」と思い込みをしているそうだ。自分がそうだからだろう。

しかしどうだろう。
例えば、フジテレビでインターンをしたこととか、インバウンド系の旅行会社で成果を出して、実際に自分が作った浅草の地図で何百万円ってお金が動いたり、そういった目に見える評価を出すと、
家の話題は少しずつ「姉」から「僕」へと変わっていった。

同じ土俵にいれば、比べられて当然だが、
一歩離れてみると、世界は全く違っていた。

それを理解してしまった僕は、
”雪山”以外、全てにおいて負けない男になるために、更に更に色んなことにチャレンジしてきた。

ある種、「逃げていた」という言い方も出来る。もちろん「攻めていた」という言い方も。

自信のない自分への言い訳だったというのが有力な説で、スキーだけで物事を図っていたら「ダメな人間」だと錯覚していた自分であったが、そんなことは全くなくなっていた。

すると、少しずつ 周囲の人間に「認められ」始めた。

そう、僕の目的は「認められる」ということだったからだ。今も注目を浴びたい。褒められたい。という欲求が強いのは、幼少期に受けた経験が理由であろう。


多くの人々が、僕に手を叩き始めた”世の中”であったが、唯一「変わらないこと」があった。
それは、「スキー」と自分の関係性だ。

普通のスキーヤーであれば、自分さえ引退してしまえば、スキーとの関わり合いは薄くなっていくだろう。

しかし、僕には「姉」という、あまりにも強すぎるスキーヤーがいた。
そう。僕はスキーから逃れられず、自分自身の最大のコンプレックスは、
身長の小ささでもなければ、学歴でもない。
アルペンスキーとの関係性」であった。

普通の人から見れば、
僕だって「トップアスリート」と呼ばれるかもしれない。それこそ、小学生の頃に世界大会にも出てれば、東京都で1番にもなっている。

けどそうじゃないんだ。

他人がどう見るかじゃない。
ここに関しては、自分自身がどう見るか。

僕は、いつだって「問題」を解決したい。
良い方法に、良い方法に。

僕のゴールは「幸せ」になること。
金持ちにならなくても、
美人と結婚できなくても、
「幸せ」だと思う状態になれれば良い。

「幸福」を感じること。それが僕の人生の最大目的だ。

成績が出ない中、やる「スキー」は、
ものすごく辛かった。スキーだけを見ると、”幸せ”とは言い難かったが、結局 スキーというスポーツを通して出来た友達が、人生におけるキーパーソンになっている。


「人生」に無駄なことはない。
全ての出来事は、自分のために起こること。

いくら自分が引退しても逃れられないスキー。
では、どう克服するか。いつ克服するか。

このコンプレックスをどう解消するか。

それが”今回”であった。
今回、このような形でヨーロッパカップに帯同させてもらい、16年間やって来たスポーツに恩返しをする。

どこかで、誰かが「一輝!やったな!」って言ってくれれば、独りだった僕は、このコンプレックスを解消することが出来る。

そして、届かぬ存在であった姉とも、
どこか対等に話せる。

その「幸福度」が、僕の目的だったんだと今、思う。自分は小学生の頃に口にしていたように選手として、この”世界”の舞台にはやってこれなかったが、

「夢」や「目標」なんて、当たり前に変わるもの。変わらないなら、今でも僕はピカチュウになりたいはずだ。


こうやって世界一周の途中で”ライター&サポート”として、この場に来れたこと。
これは、人生におけるものすごい「誇り」だし、大きな意味を持つ。

そして何より、この旅を通して、
スキーがより好きになった。あんなに嫌いだったスキーがどこか好きだ。

コンプレックスは完璧に解消された。
僕はまたひとつ大きくなった。