若者が若者に贈る若者の「声」〜父と旅するアメリカ・親子旅Ⅱ〜

今回は、そんな僕の旅を
”経営者”として、任意してくれた父との親子旅 in ニューヨーク。

...気がつくと僕は父が姉を授かった歳になっていた。

23歳。こんな未熟でまだまだ精神面で未熟な若造が、僕と同じひとりの”人間”を育て上げる。大変なことだ。

俺が今、子供を授かったら?
「教育」というのは非常に難しい。
自分の経験が浅いためまだまだ難しいだろう。

なにを教えられるだろうか。

なにも教えられない。それも「納得」をした上での教育なんて不可能だ。

ダメなものは「ダメ」と、僕がなりたくない”常識”でガチガチな大人になってしまいそうだ。

人が物事に対して納得するのは、「知識」からではなく「経験」を通して学んだことだ。

僕はまだまだ経験が浅い。
そして、世界を旅する僕でさえ、経験が浅いのだ。

”どうして良いか分からない”という状況に陥ってしまってもおかしくない。

だから 泣きわめく子供に対して、どうしていいのか分からず困っている若いお母さんの気持ちも、怒って手を出してしまう親の気持ちも分かる。

彼女がいるわけでもなければ、結婚もしていない。ましてや子供がいるわけじゃないのに、この親子旅を通して不思議と「親の気持ち」すら理解できるようになっていく。

1人の人間を育て上げるんだ。「教育」って並大抵のことじゃない。だからこそ、”自分の生い立ち”をよく理解しておくことは、教える立場になったとき非常に意味を持つことだと感じる。

子供という、何も自分じゃ出来ない、
つまりは「可能性の塊」を育て上げるのは難しいが、今だって僕は大して何も出来ないと客観視すると、「可能性」の塊だし、まだまだ未完成で良いと感じる。


清澤 一輝という人間を客観視すると、
ものすごく「子供」に見えると感じる。

コイツ、いつまで遊んでんだ。
はやく大人になれよ...って思ってる人もいるだろう。

そのことをよく考えると、まだまだ「可能性」を感じるからではないだろうか。

自分で、自分の可能性を語るのは、正直こっぱずかしい。でも、それは自分の”可能性”を信じているからだ。アスリートと同じなのだ。

自分を信じれない奴に、明るい明日はやってこねぇよ。

僕は「計画的子供」なだけで、実はものすごく大人側に引っ張られてる。
「子供」と例えたが、ちょっと違がうかも。
「学びながら生きる」...学生の方が言葉的にしっくりくるが、

大人たちは「学生」はまだまだ「子供」だと言う。では、子供のままでいい。

というか、僕が今1番好きな表現は「若者」。

ほら、「若者」って何者でもなくて、
何も出来ないのが若者でしょ?

何も背負ってないのが、若者なんだよね。

お父さんが言ってたよ。
「歳を重ねるにつれて、男はたくさんの物を背負っていく。会社だったり、家族だったり、社会的地位だってそうだ。

...するとな、簡単には動けなくなっていくんだよ。」

僕の判断は間違ってなかった。

ここで海外へ旅立ってなければ、僕の「海外への憧れ」は更に大きくなっていく。

やった後悔はどんどん小さくなるが、
やらなかった後悔はどんどん大きくなる。

僕はそれを知っていた。
今旅立たなければ、いつか近い未来、
家族を持ったり、仕事をしたり、男には背負うものがたくさん増えてくる。

特にこんな性格だから、どんどん背負っていくのだろう。

するとどうだ。ガチガチに固定されちまうだろうな。子供なんて出来たら尚更だ。

その時に、経験不足/実力不足で悲しむのは、子供も、家族も、自分自身もそうだ。

だから、僕の進んでる方角は、
「なりたい自分」への道は、こっちであってる。正しい。

僕はこんな、「男として尊敬はするが、
父親としては尊敬できない」自由人な父を持っているから知っている。

その歳になって、僕の「憧れ」が急に暴走し始めたら、困るのは家族だ。

現に、僕の家族もお父さんに困っている様子を何度も見て来た。笑

彼のかっこよさは、追いかけよう。例えば行動力とか、経験主義とか。
しかし、同時に悪いところは「反面教師」としてしっかり受け入れるのも大切なところだ。

人が成長する方法として、
「反面教師」というのは非常に良い手法だと感じる。

憧れる人は追いかけて、

ダセェ奴は追い越して、

少しずつ大人になってくのが、”短命な若者の人生”なのだろう。

そして、そんな若者は何も背負っていない。

”失うもの”がないのが若者なんだから、
”取り”に行くしかないんだよ。登るしかないんだよね。

0なんだから、1に向かって歩いて行くのが、僕ら若者。

失敗をも、糧にできる僕ら。
過去を振り返っても何もない。
あるのは、「未来」のみ。突き進むのみなんだよね。

今のこうやって、「挫折」を乗り越えて、
ここまで来れてるのは、突き進んでるから。

過去の経験から頭を振り絞って、こうやって歩いてきた。

そんな僕ら「若者」に日本のオトナ達は、
「普通は〜」とか、「一般的には〜」とか、
「常識でしょ」とかって言葉を使ってくる。


じゃあ教えて欲しい。
「ジョウシキ」ってなんだ?

旅を通じても、これだけは理解できなかった。

「常識」なんて、あってないようなもの。

オトナ達は目に見えないフィルターを掛けて、形どって、あってないような「ジョウシキ」という壁をつくる。

「世界一周」が非常識??
このブログを見てたって分かるよね。僕の周りには、そんなことしてる人たくさんいるよ。

もっと視野を広げてごらん。誰かにカテゴリー化される人生なんて、変じゃないかな。

自分という人間は、世界中探したって、自分ひとり。じゃあ、”ジョウシキ”ってなんなんだろう。

これは長くに渡り、僕が探していた議題でもあった。


”常識にとらわれたり、
くだらない一般論を唱えること、
夢を語れないことが「オトナ」っていうなら、
僕は”大人”になんてなりたくない。

子供の頃みたいに、いつまでも
”未完成の美”を掲げていたいし、
決して完成しないけど、ゴールに向かって歩いていきたい。いつまでも夢を追いかけたい。

日々、新しいものに出会って無邪気な顔で、
”子供”のまま、「大人の社会」を歩いていきたい。”


この答えにたどり着いた。
この「Walking on the Earth」の副題は、
「世界を旅して少しずつオトナに」というものだった。

不思議な感覚だが、オトナに近づけば近づくほど、自分とは遠ざかっていく、「アキレスと亀」のような感覚であった。

でもそれでいいと思う。
きっと、”オトナ”ってのは、子供の頃にしか出会わない生き物だ。俺は、俺なりの答えを歩いていくよ。

「自分探し」

それはこの旅のテーマのひとつでもあった。

自分が”何者”で、何が出来て、どこへ向かって行くのか。

”探していた”はずなんだけど、
最終的にたどり着いた答えは、
まだ「見つけなくていい」っていうこと。(これはオトナの話も含めてだ)

”探し続ける”...つまりは、チャレンジし続けるってことだ。

「自分が何のために生まれてきたのか。」

これを知るために、新しい世界に飛び込み続ける。答えを出すためにもがき続ける。

見失って結構。探し続けて結構。

見つけちゃったら、そこに定着しちゃいそうだもんな。だから、”まだ”見つけなくていい。これが、「自分探し」の答え。

若者よ。探し続けろ。もがき続けろ。
「悩む」ということは、自分の人生としっかり対話しているということだ。

この自分に言い聞かせた言葉から、ガチッと「計画的子供論」が生まれた。

まぁでも、モテない。
子供はモテやしない。かっこよくない。ダサい。J-POPみたいな歌詞を言い続ける奴は、この現代社会において”おかしな奴”だ。

クールに、シンプルに、
言い方を変えれば、流され続ければかっこよいとされる時代だ。松岡修造の言葉はほぼネタとして扱われ、武井壮くらい熱い男にもアンチが付いてしまう。

でもいい。彼らの方がよっぽど「人間らしい」。

僕らはロボットじゃない。機械じゃない。
ハートの暖かい人間だから。
そういうことを忘れちゃいけない。

僕は女性を尊敬してるけど、いまの彼女たちは
忘れがちだ。「物」や「形」にこだわるから。
経験値よりも、ブランド物もバッグの方が何百倍も価値があると思いがちだ。

SNSが普及して、今や”彼氏”さえも自分のブランドのひとつとなっている。

このまま行けば、自慢が自慢を呼び、
リア充と非リア充の差が更に広がることになるが、どちらがリア充かを決めるのは、自分自身で良いと思う。

そこには果てしない「価値観」が存在するからだ。

一方、男の方が実はアホだけど、ロマンチストだ。自分のやりたいことに貪欲だったり、飛び出すことを恐れない。もともとダサいからこそ、その武器を使って、心の暖かい人間になっていくのだろう。

そうそう、ブランド物のバッグで思い出したが、ニューヨークには「5番街」と呼ばれる東京の「銀座」のような高級ブティック街が存在する。

その道を父と歩いていて唐突にこう言った。
「なにか欲しいものがあったら言ってくれ」

おぉ、久々の息子との再会に
お父さんの財布がゆるゆるになっている。

実は、この世界一周の旅で父と合流したのは2度目。1回目は、フィリピン留学を終え、2人でボホール島に行った。

あの時は、語学学校を卒業したてで、あまり英会話らしい英会話を父に見せることが出来なかったが、今回は違う。

あれから5ヶ月。言い回し方や妙なニュアンス、だいぶ分かってきたからだ。
少しずつ披露していって僕の成長ぶりに、おそらく父は気持ちが良かったのだろう。

しかし、一緒に5番街を歩いて気付いた。

自分の物欲の感覚が変わっているということに。
物を買うことに対して、基本的に
「すぐに捨てることが出来るか」と問いかけるのだ。

今から、新しい物を”買う”のに、
”捨てる”ことを考える。とても矛盾しているように思える。

どういうことか。
僕の資本は「健康な身体/経験値」だ。
もし銃を突き付けられ、強盗にあったとして、
荷物を全部 ためらいなく渡すことが出来るか。

津波が来て、車に閉じ込められて、
付けている腕時計で、時計もろども窓を叩き割って脱出する判断がパッと浮かぶか。

きっと200万のロレックスでは、思いつかなそうだな。
50万のモンクレールのウェアーは取られたら嫌だな。

自分がそれらを、誰かにくれてやれる男(年収的にも、器的にも)になるまで、
付けられている”物”と、付けてる”人”どちらが主役か分からなくなってしまう。

でも、物に固執する人間が多いから、僕から言わせてみれば「その人の価値」や「人間性」をまるで高い毛皮や高級のバッグを持って、隠しているようにも思えるが、「実力」なんて物を育てられる人なんて、そういないことに最近気が付いた。

だから、女性は物を持つことが好きなのだろう。もちろん全ての女性というわけではないが、僕が東京にいた頃はよく見かけた。

なぜ分かるか。自分がそうだったからだ。

無理して何ヶ月も貯金をして、高いセーターを買っては、実力のなさを覆い隠し、オトナぶった。これほど滑稽なものはないし、オトナぶってるコドモほど悪臭のついたものはいない。

経験値が低いのに、ガチッと自分の可能性をストップさせてしまうからだ。

なぜ分かるか。僕がそうだったからだ。(2回目)

とにかく、ずっと物に固執していたが、
この旅を通して変わったのは、「物に意味はない」ということ。

ニューヨークに来て自由の女神を見たとしよう。今までの僕なら、絶対 何らかのお土産を買っていた。

しかし、「その物」には大した意味はなく、
価値があるのは、”自由の女神を見た”ということ。本質は後者にある。

きっとこれからも、この本質は見失ってはいけないのだろうな。そして、実用性を考えるんだろうな。

何かの記念で、誰かにプレゼントをあげる。これには「意味」がある。だけど、自分になにか意味のないものは控えるようになるだろうな。

この先 僕は「物」ではなく、「食」や「経験」にお金を掛けることが増えるだろう。


...父曰く。
「『食』もまた『経験』である。」

何が美味しくて、何が不味いか。
自分が何を食べているのか、それがどのくらいの値段で、どのくらいの味なのか。

お店の雰囲気や客層はどんなものなのか。

男として、知っておくことは大きな財産になるそうだ。

僕は大学では、文学部で社会学を学んでいた。
だからこのブログも含め、現代社会の問いがふんだんに使われている。

ちなみに「広告」や「メディア」、「ジャーナリズム」も社会学に近い。
なんとも僕にあった学問を学んだなと心から感じる。

しかし、学生の頃から”いつか起業したい”という小さな野望を持つ僕は、経済学部や商学部の授業にも少しだけもぐり混んでいた(単位も取ってないのに)

「起業論」なんて話はとてもためになる。

若い社長さんが来ては、経営の話をしてくれるフリーの公演はよく足を運んだもんだ。

しかし、ある日気が付いた。

僕の周りに、「社長さん」いるじゃないか。

それからだ。父の話に耳を傾けるようになったのは。彼から学べるものは多い。

僕らはニューヨークを後にし、マイアミへ。