僕が「シャーマンの儀式」で見たもの〜ワールドエンド・世界の果て〜
※これは儀式の翌日に書いた内容だ。絵も僕が見たもの、体験したものをスケジュール帳の余白に殴り書きで、なるべくそのままの記憶を書き出したものだ。
途中使われる写真は、Maroon5 の「Cold ft.future」のMV。この映像、僕が見たものにかなり近いので、一度見てほしい。
...今から話す内容は、すべて実話である。
まず先に言っておこう。
「言葉」には、なんの意味もない。
人間が伝えられる”言語”というものには限界があり、今回の経験は完全に”言語”を超越している。
ライターの僕が言うんだ。これは本当だ。
絶対に伝えられない。具現化することは不可能。
そもそも「自然」を文章やアートのというもので表現し、誰かの感情の中に閉じ込めておくのはあまりにももったいなさすぎる。
そんな「シャーマン」「アヤワスカ」で体験した内容を、無理も承知で”形”にしていこう。
”精霊師”ジャーマンの儀式が行われ、
「アヤワスカ」を口にした。その後 電気が消され、部屋は暗闇に包まれる。
最初は、横になり、目を瞑り、「幻覚」というものがどんな感じか考えた。
しかし、目を瞑り、考えたその先にあるのは、”幻覚”というより、僕の”想像力”なのでは?
と、感じ 頭の中で何かを考えることをやめた。
暗闇にだんだん目が慣れてくる。しかし一向に何も起こらなかった。”宇宙の神秘”や”人生における真理”を「見てみたい」そう思ってやまなかった。
暗闇の中、シャーマンが近付いてきて、2杯目のアヤワスカを進めた。
僕は今でも思い出すと吐き気を及ぼすそのアヤワスカをグッと勢いよく飲み干し、壁に寄っかかって、世界を見渡した。
すると、まず視覚が僕を襲った。
目に見えるものが全て、立体から二次元になり、赤と青の棒状のものが広がり始めた。
まるで3D映画のメガネを外したかのような幻覚だ。
その棒状のものは、次第に立体化し、奥行きが現れ、「宇宙」が開かれた。
数えきれない星々。僕は宇宙に進んでいく。
色は紫や黄色、オレンジといったところで、その煌きは砂漠のようであり、今まで見た何よりも美しかった。
この時、口は開きっぱなしで、さっきまで視覚に頼っていたのに、「五感」なんてなんの意味もないことを悟った。口は常に微笑み、表情筋は痺れていた。
結局のところ、目に見えるとか、耳で聞くとか、そういったフィルターを通して脳に伝達されているだけの”意識”だ。
すべては「意識」の問題で、僕の意識は宇宙へ向かって放たれた。
まばゆい流れ星が僕を過ぎていく。気がつくと、大きな船に乗って「世界の果て」を目指していた。
意識の中では、これを「ワールドエンド」と呼び、僕はどこか分からない世界の果てを大きな船に乗って旅をしていた。
丸い”地球”であれば、色んな意味で「果て」というものは存在しない。しかし、姿も形も、何も分からない”宇宙”の果て。
つまり、誰も行ったことのない場所を目指す。
心の中でものすごい不安があった。
そんな時、僕の頭の中の船ではクルーが乗船していた。このクルーを僕は第2、第3の人格だと悟った。1人のはずの人格が何名かの人格に別れ、会話をしていた。
後にシャーマンと話したとき、僕は永遠に独り言を話していたという。
これは自分でも分かっていた。周りの人間が明らかに、静かに「幻覚」を見ている中、僕は第2、第3の自分と永遠に対話をしていた。
その大きな理由は、「世界の果て」を旅する上で、自分はどこに行っていいか分からなかったからだ。不安で、不安で仕方がなかった。
道無き道を切り開く。それも暗闇の中をだ。こんなに不安なことはなかった。
頭の中の主なクルーは、
1.ワイルドな僕(船長)
彼は”船長”だ。行き先を知っている。常に舵を取り、自分のやるべきことを”分かってる”。どっちに向かえばいいのか知ってる。
このことから、1番口に出していた独り言は
「俺は、どっちに進めばいいか分かってる」であったそうだ。
でも本当は分かっていない。
自分の進むべき方向がどっちかも分からないことを恥ずかしいことだと思い込み、知ってるふりをして、コンパスを読み、舵を切る。
しかし、冷静沈着で行動力がある。自分の中での最も憧れの強い”男”の姿である。
2.6歳児の僕(寂しがり屋)
枕を片手に、常に自分の帰る場所を探している。寂しがり屋で、怖がり。
これは両親が共働きをしていて、いつも1人で不安で不安で仕方がなかった頃の僕だ。
ワイルドな俺は、「自由」と「孤独」を愛し、世界の果てのそのまた果てまで旅を続けたいと思っているのに対し、6歳児の僕は「帰るべきを探している」。
暖かい布団で眠るのが夢。
3.周囲に認められたい自分
ライターやカメラマン、純愛主義を語り、
「理想」を追い求める一方、「本当の幸せ」とは何か?と常に自分に問いかけている。とてもマメで真面目な自分。
彼は、自分がしたいこと。と、
世間からの見られ方とのギャップに頭を悩まされていて、よくキャプテンのような自由な暮らしを夢見ている。
常に「幸せ」というものを意識している印象であった。
4.ストーリーテラーの僕
すべてを客観視している。第四者の自分。
天から物事を見ており、
例えば写真を頼まれたとして、「僕が誰かを撮っている」という光景を上から見ている。
この旅の物語をすべて、文章化し、
「自分という人間」のドラマを作り出しているが、このドラマを誰かに見せたところで何になる?と自問し続けている。
ドラマを含め、自分が誰かに見られている。そして自分は完成すると思っているが、
「完成」した先に一体何があるのか。
本当に大切なことは、本当に大切な一部の人間だけが知っていれば良いのではないかと思っている。
自分との対話で現れた人格はこの4つだ。
特に、”ワイルドな俺”と”6歳児の寂しがり屋の僕”が自分の中での大半をしめていると感じられた。
...「世界の果て」まで旅を続けた。
その中で、僕は懸命に旅の内容や経験を文章にしようと試みた。
しかし、「自然」という流れを、人が文章やアートとして閉じ込めるのは、あまりにももったいなさすぎる。
人間の粗末な文章力や才能と呼ばれるものをもってしても、「自然」の圧倒的な力の前では、無意味であった。
「文字なんて意味がない」
「言葉なんて無意味だ」
そう、”世界の果て”には記されてあった。
...「Kei, are you okay..?」
シャーマンがそう僕の肩を揺すると、意識は一気に「世界の果て」から暗闇の部屋に引き戻された。
意識が無理やり転送された感じで、ものすごい吐き気がした。
おそらく周囲の人間も、同じような感覚なのだろう。シャーマンの弟子でさえ、嘔吐し、その音が暗闇に響き、僕も我慢が出来ず、バケツの中に思いっきし吐いた。
その感覚というものはおそらく、恐怖そのものだ。
僕は「地獄の監獄」へと落とされた。
自分がなぜここにいるのか。第監獄の中では悪魔や、呪いの音が響き渡り、
「生まれては」「死に」
闇の呪文が唱えられ、暗闇からはこの世の物とは思えない悪魔や闇の精霊達が地獄から這い上がりながら、近づいてきた。
シャーマンが持っていた羽で音を立て、まるで空気をかき回すかのように、鳥が飛び立ち、僕の嘔吐も、監獄や地獄のイメージも消えていった。もちろん悪魔も。
キャプテンの俺が話しかけてきた。
「分からないものには触れるな。良い方向へ、良い方向へ進もう」と。
死後の世界を考え始めても、答えは見えない。
自分という人間が無力に思えることには触れるなと彼は忠告してくれ、
そして、「生」と「死」のサイクルを見せてくれた。
芽が生え、「生」が咲き誇る。
花も、木も、人も、動物も、大地も。
しかし、咲き誇った瞬間に、ドロドロに解け死ぬ。なくなる。朽ち果てる。
この「生」の真理がものすごく怖かった。
怖いと思った瞬間、再びだ。
「分からないものには触れるな」と声を掛けてくれた。
それから、恐ろしいと思ったときは、ブルブルと震えた身体を抱きかかえ、「良い方向」を探した。
光り輝くネオン街に、高級車、腕時計。
金がある男の周りには、アホな巨乳の女が集まる。では、「愛」はどこにある?
この世のどこに「愛」があるの?
6歳児の僕が懸命に、愛される場所を探す。
その意見に、「愛」なんてない。
世界中探したって、人は「1人」。
生きては、死ぬ。孤独を楽しめ。と、
ワイルドな俺が言う。その間のストーリーテラーの僕。話は、真理に近づけば、表裏一体であり、話の頭に戻る。
戻る最中で、悪魔や呪いの歌に出会っては、
「分からないことには触れるな」
「良い方向を探せ」と暗闇の中で声が聞こえる。
いつまでも”五感”に頼るな。すべては意識だ。
この内容をひたすらに、声を出して自分と対話していたのだ。
シャーマンが何度も僕を心配して話しかけてくれた。このとき、僕は英語とスペイン語がペラペラだったそうだ。
スペイン語での受け答えに、「言語」を超越し、意識だけで会話をしていた。と、後にシャーマンに話された。
一通り、頭の中で世界を旅し、「真理」というものを見つけては、壊し、分かっては忘れ、
「言葉になんてなんの意味もない。」
シャーマンに話しかけられれば、
意識は再び暗闇の部屋に。隣の女性が歌い出せば、その歌に酔い。誰かが笑い出せば一緒に笑い。「カオス」とはこの空間を意味するのだろう。
最後、シャーマンに「kei, you should go back to your room.」と声を掛けられ、
僕はとても嫌がったそうだ。
もっと世界を旅したい。みんなと一緒にいたい。帰る場所を探したい。
やはり、キャプテンと6歳児の、
「旅を続けたい自分」「帰る場所を探している自分」の対話が全てであった。
その後、ふらふらの足元の中、
現実を見ながら、部屋に連れていってもらったのを覚えている。
幻覚を見ているが、意識はハッキリしている。
どこに行っていいか分からない自分にとって、シャーマンが肩を貸してくれ、自分の行くべきところを案内してくれる。
こんなに心地の良いものはなかったし、
自分の部屋に帰ってきたときの心の安らぎはとてもじゃないけど、言葉にできない。
「みんな、暖かい布団で過ごす明日のために生きているのかもしれない」
世界の果てまで旅して気づいたのは、安らぎ。
結局、僕の意識は6歳児の寂しがり屋のままで、そこに理想であるキャプテンの像が船をひき、舵をとる。
「旅を続けたい」一方で、「帰る場所」を探しているのだ。
その後も朝まで一睡もできず、僕は旅を続けた。
以下、「世界の果て」まで旅した後の解釈(当時のもの)
【南米の”精霊師”シャーマン①】
精霊たちと世界の果てまで旅した。
精神の中の自分は、誰も行ったことのない場所(世界の果て)を目指しているはずなのに、同時に「帰る場所」も探していた。
「帰る場所を探す旅」ってのが果てしない、世界の果てなのかもって、結局突き詰めると全て「原点」に戻るということを学んだ。
俺は世界の果てまで来て、「帰る場所」「帰るべき場所」を探してるのかもしれない。
この経験は、例えライターをしていても うまく言葉にできない。
「”果ての旅”のそのまた果て」
最近”次世代トラベラー”と呼ばれたり、旅をしながら、その旅の資金を賄う”プロトラベラー”と呼ばれる職業に片足を突っ込んでいる自分がいた。
旅をして、資金を集め、再び旅を続ける。そのサイクルは「1人でなら長きに渡り、旅を続けられる」
「しかし、その”旅の果て”に何があるのだろうか?」という問いにシャーマンは気付かせてくれた。
「1人で永遠に旅を続けて、その先に何がある?」精霊たちは問う。
決めた。日本に帰ったら、ちゃんと就職する。
自分には「帰る場所」が必要だし、
この素晴らしい”旅路”を次の世代に伝えなければいけない。
「1人だけ永遠に旅を続ける」なんてことは、”果て”を見てしまっているようなものなのだから。
「シャーマン」...他にも「愛」とか「人生」とか、「生」とか「死」とか。
目に見えない大切なものと対話が出来たり、旅の後半からずっと悩んでいたモヤモヤを解決する良い経験でした。
...
それを踏まえた上での「シャーマン」振り返り。
結局、自分は「帰るべき場所」を探し続けていたわけだ。
世界の果てまで行き、「愛」という、人生においてかけがえのない物を探していた。
その「愛」を感じることが”目的”であり、
この儀式後、その”目的”を達成するための”手段/方法”として、「就職」という道を当時の僕は選んでいた。
しかし、この時の僕は知らない。
「ありのまま」の”等身大の僕”、”自分らしく生きている僕”を心から愛してくれる女性が、もう間も無く現れるということに。
物語はついに、ボリビアへ。